財界九州「翔ける次世代リーダー」専務取締役 豊川智彰
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▼記事内容▼
「豊川家で受け継ぐ建築哲学を後世に伝える」
豊川設計事務所 専務
豊川 智彰氏(45歳)
とよかわ・ちあき/ 1975 年9月30 日生まれ。福岡県北九州市出身。福岡大法学部卒業後、建築関連企業に就職。しかし、急逝した父・周平氏への思いから、25 歳の時に改めて弟・仁喜常務と共に工学院大に入学し、大学院まで通う。豊川設計事務所に入社後、母・裕子社長の右腕としてさまざまな建築物の設計を手掛ける。業務の一環でプロダクトデザインも行っている。
公共施設から民間施設、時には個人の住宅まで幅広く建築物の設計を手掛ける豊川設計事務所(北九州市)には、先人から脈々と受け継がれてきた〝人間の営みを何よりも最優先に考える建築哲学〟が存在する。同社の次期社長と目される豊川裕子社長の長男、豊川智彰専務もまた、そのDNAをしっかり受け継ぎつつ、いずれ来る事業承継の日に備え着々と準備を進めている。
「父を常に尊敬していましたし、私の誇りでもありました」
■母・裕子社長もさることながら、 父・周平氏(故)もまた建築士。さらに言えば、祖父、曾祖父もまた建築を生業にし、まさに建築一家に育った豊川専務。
この環境であれば必然的に建築士を最初から志したかと思いきや、実はそうではなかった。
「父も母も建築士ですが、当社は母方の家業で、私が小学生の時に、父が養子縁組を結ぶかたちで会社を祖父から引き継ぎました。そのような状況を見ていたので、物心ついた頃には『長男なのでいずれは仕事を手伝わなくては…』と、そんな思いはありました。ただ、建築士になりたかったかと言えば、実はその意識は当初はありませんでした」「その理由を一言で言ってしまえば父を助けたかったからです。父は建築士として、とても優秀な人でした。例えば、『旧赤坂プリンスホテル』の基本設計は東京の丹下健三先生の元、弱冠28歳の父が行ったものです。事例を挙げるとキリがないですが、いくつもの有名な建築物の設計に携わっており、私は父を常に尊敬していました」
「しかし、経営のうえでは損することも多く、施主の契約不履行を受けたりと、苦労している姿を見ていたので息子としていきどおりを感じたことを覚えています」
「そこで、私自身が建築士になるのではなく、建築士である父や母を別の立ち位置で支える存在が必要だと考えまして、高校の時に企業間トラブルに強い弁護士になる決意をしました」
「福岡大学の法学部に合格し、キャンパスライフにもやっと慣れはじめた矢先、想定外のことが起きました。父が、『胃平滑筋肉腫』という難病を患ってしまい、大学2年の時に急逝しました」
「父を亡くす喪失感と、父と共に家業を盤石にしていくという大きな目標を失ったことから、放心状態となってしまい法律の勉強に対する情熱を失ってしまいました。それでも卒業に必要な最低限の単位だけは取得し、とりあえず周囲に合わせて就職活動だけはしまして、卒業後、建築関連企業の営業職に就きました」
「仕事は楽しかったです。しかし、自分が思い描いているものとどこかちがう違和感を常に感じていまして、もともと家業を手伝いたい思いはずっとあったので24歳の時に一度家業に戻りました」
「しかし、この職業は知識や技術、そして経験が物を言う仕事ですので戻ってきたところで自身の力量不足が否めずずっとモヤモヤしていたものがありました」
「そんな時、妻から『あなたにとっての幸せな人生は、家業と真剣に向き合うことだよ』と言われ、さらには地域のお世話になっている方々からもたくさんの応援の言葉をいただき、改めて『父のような建築士なって家業を支えよう』、そう決断しました」
「そして一から建築を学ぶため、父と母の母校である工学院大に改めて入学しました。笑い話ですが、その時期に弟・仁喜常務もアメリカでの留学から帰国し、同じ大学に入学したので、弟なのに同級生という、なんとも不思議な状況になりました(笑い)」
「そろって大学院まで通い、あわせていくつかの設計事務所で修業させていただきみっちり5年間勉強させていただいた後、私が31歳、弟が26歳の時に一緒に北九州に戻ってきました」
「建築は作品であっても作家の芸術を追求するものではない」
■家業に戻り、初めて携わった仕事が障がい者支援施設の設計だった。結果的には、施主にとても喜ばれるものになったわけだが、そこには豊川家で代々受け継がれる建築哲学が自身の中に自然と刷り込まれていたことが大きかったようだ。
「私が家業に戻ってきて、初めて携わらせていただいた仕事が障がい者支援の社会福祉法人『北九州市手をつなぐ育成会』からご依頼いただいた仕事でした。実は私の大学院での研究テーマが『人が集まって住むかたち』というものだったので、まさにこれまで勉強してきたことを実践する仕事です」
「入居者は障がいのある方々なので、母と相談しながらできるだけ感性、感覚に訴える設計にすることが大事だと考えました。例えば、天井一つとっても、入居者の部屋は2・5㍍、そして共有スペースの天井の高さは3㍍など、あえて、メリハリをつけることで、入居者が感覚的に施設の機能の意味あいを感じてもらえる設計にしました」
「さらに、障がいのある方々の『自立』と『社会参加』を促す空間も同時に具現化していく必要があり、地域住民とのコミュニティー形成を目的とした空間も新たに設計しました。正直、考えることが山ほどありましたね」
「おかげさまで施設は完成しまして、その後、入居している障がいのある方々から『僕らの場所をつくってくれてありがとう』と大変喜んでいただけました」
「この時、建築士という仕事が建物を通してさまざまな人々の人生に関わり、直接人々を幸せにするお手伝いができる仕事なんだということを実感しました」
「ちなみに、建築に対する考え方はさまざまあると思いますが、豊川家で代々受け継がれている建築哲学というのは、人間の営みを何よりも優先する考え方です」
「分かりにくい言い方で申し訳ありませんが、建築は作品であっても作家の芸術を追求するものではないということです。育成会の案件に関しても、この考え方が、自然と自分のDNAで受け継がれていたのが大きかったと思います」
「建築士の仕事は端から見ると、図面だけを書いているような印象が強いですが、何もないところから何十年と使われ続ける建物をつくるため、あらゆる知識と技術を必要とします。その土地の形状について調査するのは当然のことで、地名の由来、時には相手の生い立ちにまで踏み込んで対話を重ねていきます」
「そのためには、できるだけ多く知識や経験の引き出しを持ち、その状況に応じてどの引き出しを開けるのか、これが一人前にできるようになるには相当な時間が掛かります」
「ただ、私が恵まれているのは、先代、先々代と紡いできた技術の研さんと知識の集積が既にあることで、自らの行いを答え合わせできる環境あることです」
「同年代と比べて自分の技術は劣っているとは思いませんが 私が目指している建築は、まだまだ遠くにあることも認識できています」
「われわれの仕事は紙に線を書いただけでそれが柱になる」
■建築設計という業態もまた「IoT」や「AI」などをはじめとしたテクノロジーとの融合が課題になっている。しかし、豊川専務は、「あくまでも過去の経験則が核にあって初めてテクノロジーが生きてくる」と言い、人にしかできない価値はその先にあると考える。
「建築というのは先人らが紡いできた知識と技術の集積があり、その要素は絶対にないがしろにできません。しかし一方で、全てのモノにインターネットがつながる時代が到来していることも事実で、建物の鍵を顔認証で解錠したり、センサーで住人に快適な温度を保つというような『IoT』技術が日々進歩しています」
「現在は、このような機能性の特徴をメーカーがセールスしていますが、本来はゼロから1を生み出すわれわれのような設計事務所が積極的に提案していく必要があるでしょう。 そのためには常に情報感度を高め、学びの歩みを止めないことが重要です。ただ、繰り返しになりますが、いたずらに先端技術を追いかけるのではなく、過去の経験則から学ぶという考えを基本軸に据えたテクノロジーを提案していきたいですね」
「われわれの仕事は、紙に線を書いただけでそれが柱になるような非常に責任が大きい仕事です。恐らく今後も時代変化が進むに連れ、その責任がより大きくなってくると思います」
「近年、残る仕事と残らない仕事などが発表されたりしていますが、建築設計の分野もいずれはAIがやってしまうかもしれません。ただ、データベースで設計図が完成したとしても、そのもっと奥の方にある利用者の暮らしの幸せをくみ取ることは、結局のところ人にしかできないことだと私は思っています」
「これからも、母である社長を弟と共に二人三脚で支えつつ、来るべく事業承継の日に備えて、今のうちからしっかり準備をしていきます。そして、豊川家の建築哲学を深く継承しさらに太く紡いで後世に伝えていけるよう責任を果たしていきたいです」
財界九州2020年3月号 掲載